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藤木久志、飢饉と戦争の戦国を行く、朝日選書、2001 (Fujiki Hisashi, A journey through the famines and wars of Sengoku Japan, Asahi Shinsho, 2001)
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藤木久志、飢饉と戦争の戦国を行く、朝日選書、2001 (Fujiki Hisashi, A journey through the famines and wars of Sengoku Japan, Asahi Shinsho, 2001) Disaster, Famine, 当時(応仁の乱2年―1468)よその国の災害もひどいものでした。陸奥(福島県、宮城県、岩手県)も「大雨、洪水」といわれて、奈良や京都では激しい旱魃の後、夏から秋にかけては一転し、「大風雨、洪水」が続き、備中の新見称(にいみのしょう)では「当年八月に大風吹き、畠のこと、さらに損亡にて候」という被害に身舞われた。巨大な台風が日本列島を吹き抜けるらしいです。 明応七年(一四九八)の秋、広く東海列島の一帯を、激しい地震・津波と暴風雨、大洪水が襲います。死者は数千人とも五千余人ともいわれ、ようやく実った田畠の作物は腐ってしまい、収穫は何もなかったといいます。その後も、旱魃、飢饉、疫病が数年にわたりました。永正元年(1504)、夏からあきにかけて大雪が五度も降る冷夏に襲われた上に、旱魃となり、大凶作のあげく、疫病までが広がりました。(90) 応仁の乱・弁明の乱が中世京都のサバイバル(生き残り)の物語です。十五世紀のなかはすぎ、応仁元年(1467)から文明九年(1477)まで10年にわたって、京都を主戦場として追われた、首都の内戦でした。 内乱のもっと深い底流には、長いこと断続的に日本各地を襲った、大雨、旱魃、凶作、飢饉、疫病がありました。その理由はおそらく大名たちのお家騒動からみの戦争が加速させ、無数の飢饉難民・戦争難民が生きるのこたるために、周縁の村々から京に殺到したのです。京都はいわば「流餓の都」だったのです。この状況の後ろには、乱の直前まで半世紀近くにわたって、徳政をさけぶ土一揆が、周縁からくり返し京を襲いました。(46)(この研究、とくに藤木先生に指摘した研究は主に京とその中央周辺に集中しています。藤木先生のテーマは大体飢饉と都市、村への影響なので、一向一揆の書類はあまり出ていませんが、土一揆と一向一揆は確かに似ているところがあります。ただ、まったく同じの現象ではなくて、違っている部分と構造もあったので、必ずこれを参考にしなければいけない)。 「生産地はなぜ飢える(うえる)のか」 Why do farming areas starve? 藤木先生はかなり面白い仮説を持っています。中性の村は、生産物で自分の暮らしを立て、その余りを首都へ移出する、という自然な自給自足の村ではなかった。京の周辺の村々は、政権都市であり荘園領主の拠点都市でもある首都に早くから従属し、京に食糧や物産を供給する基地として、地域ごとにきまった作付けが強制され、それを上納し、販売することで、ようやく村のくらしも保障されるようになっていた。 だから、いったん凶作になると、この偏った需給システムを持つ地産地がまず飢えに襲われ、食を求めて生き延びるために、権力があらゆる富を集中させた、首都をめざすことになったのだ、というのです。 さらに、農村の飢饉は食量の不足がなくても発生する、問題は飢えた人々がなぜ食糧を確保できないのかだ、という経済学者アマルティア・センの警告もあるのです。(58-59) |
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